開かれた愛国心と愛国心教育のすすめ   第2回 (全3回)

『古事記』『日本書紀』に記されてゐる日本神話は愛国心が語られてゐる神話ではないが、「国家からの抑圧(個人への抑圧も、外国への抑圧も)」が極めて弱い意識で語られた神話だ。具体的には、天照大神などの権力者が、低身分の神々さらに人間を抑圧するやうな話は全くと言ってよいほど存在せず、また、天照大神たちが国土拡大(正確には、地上の国の平定)をなしとげる時にも、外国つまり地上の国の神々や人間を抑圧する話は少ない。



どこかで聞いたやうな話だな。



このブログの「日本神話とギリシア神話」と、「古事記の歌謡とギリシア・ローマ抒情詩の基本的異相」の中で詳しく説明してある。それで、このやうな神話を児童生徒の年齢に合はせて教へることによって、自然と児童生徒の心の中に、「柔らかな愛国心」「開かれた愛国心」が育っていくはずだ。ここでは日本神話のポイントとなる物語を、愛国心にからめて説明する。



面白い物語から入るのか、古い物語から入るのか。



古い物語からだ。まず、「国生み」の物語の中で、「いざなぎの男神」「いざなみの女神」が、国土を作り生んだといふ話が書いてある。だが、この二人の神は、「多くの天の神々」から勧められて、この国を作り生んだ。つまり、この国は、二人の神が独断で作り生んだのではなく、また一人の権力者が二人に作り生ませたのでもなく、名前はわからないが「多くの神々」の意見が一致したことを二人が実行して、出来あがった国だ。現代の言葉で言へば、民主的に出来上がった国だ。このことを押さへて、児童生徒に「国生み」の物語を教へるならば、児童生徒は、自己存立の最大の基盤である自国の安定性・平和性を直感するだらう。




子供たちに、「国生み神話の民主的性格」などと言って、この物語を教へるのか。



いや、そんなことは言はない。言はなくても、子供は勝手に記憶の底に残して、無意識に理解してくれる。もっとも、中学生ぐらゐの子供ならば、「国生み神話の民主主義的性格」などと注釈を加へれば面白がるかもしれないが、それでも可能な限り、余計な注釈は加へない方が良い。



中学生のなかの生意気な生徒になると、このやうな話は馬鹿にして聞かないかもしれない。さうなったら、どうする。



その場合は、やむをえず、今のやうな物語解釈の面白さで、話を聞かせる。だが、小学生ぐらゐならば、子供が頭から神話に入ることは避けたい。なぜならば、本人の心の奥底に神話がしみこむことを、本人の理知的判断が妨げてしまふからだ。「昔はこんな馬鹿げた話があったのだ」といふ程度でも良いから、最初は物語そのものを受け入れさせたい。



それは分かった。それで、まだほかに聞かせたい物語があるのか。



「天の岩戸」の物語だ。この物語は、すさの男の命が多くの悪さをしたために、天照大神が怒り悲しんで岩戸の中に隠れてしまひ、世界が真っ暗になった。驚いた神々は相談し、占ひをし、協力して、天照を岩戸の中から引き出すのに成功し、世界に光がもどったといふ話だ。

しかし、天照は活動する神の中の最高神だから、すさの男を処罰できる立場だ。それにもかかはらず、天照は自分から岩戸の中に引きこもった。これは天照に権力主義的発想が全く無かったことを示してゐる。また、天照は他の神々や人間に対しても、権威・権力を発動するといふことをしない。だから、見やうによっては、天照は下々の神々を抑へられない、頼りない最高神なのだ。これを現代風に言ふならば、少し強引な表現だが、「国家権力の個人への抑圧」が日本神話においては、ほとんど見られない。反対に、「個人の国家権力への抑圧」が見られるといふことだ。このことを押さへて、児童生徒に「天の岩戸」の物語を教へるならば、児童生徒は、自分が権威・権力を持つ立場に立ったとき、権力主義的行動をとることにためらひを覚えるだらう。………また、………



また、どうした。



また、この物語では、神々の中に、天照が岩戸に籠ったことにつけ込んで、自分が新権力者の座に着かうとするやうな者は一人もをらず、全員が心を合はせて問題解決のために努力してゐた。この事も子供に理解させるならば、子供たちは、頼りない教師・大人・親・権力者をも馬鹿にすることなく、当面する問題の解決のために努力する姿勢を記憶するだらう。



指導力のない教師やダメ親にとって、日本神話はありがたい物語なのだ。



次に、「天照大神から使ひの派遣」の物語がある。この話の概略は、天上の天照大神が八百万の神々を集めて大会議を開き、「乱れた地上の国を治めるために、誰を使ひとして派遣しようか」と相談した。会議の結果、選ばれた神が地上の国に下った。しかし、その神は、地上の大国主に媚びへつらって、三年も戻ってこなかった。それで、天照大神はまた大会議を招集して、「今度は誰を派遣しようか」と意見を求めた。議論の結果、二人目の神が地上に派遣された。しかし、この神も地上の大国主に媚びへつらって、八年も戻ってこなかった。天照はまたまた大会議を招集した。………と、このあたりにも、「国家権力による下々への抑圧」はない。仮りに天照の地上平定を、天照の地上侵略だと見なしても、それは個人個人と国家権力との協同作業による地上侵略である。………ともあれ、大会議の結果、派遣された三人目の神・「建御雷(たけみかづち)の神」が、結局、地上の大国主を説得して、やうやく地上平定にめどが立ったといふ話だ。



かなり長い話だな。



多少は我慢したまへ。それで、この話に特徴的なことだが、天上の神々は、地上の大国主を「敵」だと見てゐない。少なくとも、「敵だ」といふ言ひ方を全くしてゐない。通常、政治や外交にかかはる内容の文章は、必ず「敵」を立てるものだが、この話は地上へ「話し合ひ」の使者を送らうといふ内容であり、八百万の神々の中に、大国主を「敵」「悪」と前提して物を言ってゐる神は一人もゐない。さらに、地上の大国主のもとに居ついて天上に戻らない二人の神を、「裏切り者」と非難する神も全くゐない。これは「国家からの外国への抑圧」を押さへる発想だ。いや、正確に言ふと、「国家から外国を抑圧する」発想がないのだ。この点を逃がさないやうに、この物語を教へるならば、児童生徒は、自国の言ひ分を他国に実行させる場合は、相手国を「敵」と見なさず、あくまでも話し合ひを優先して交渉するべきだといふ教訓を得るだらう。 



この物語も、なるべく理知的解釈は後回しにして教へるのだな。



さうだ。神話といふものは、大げさに言へば、自分の魂が思ひ出すものだ。………それで、続く「大国主の国ゆづり」の物語だ。この話は、今の「建御雷の神」が地上に降りて大国主と談判を始める。「建御雷の神」は刀を抜いて大国主と話を始めてゐるから、武力を誇示して話し合ひに入ったと思はれる。しかし、話す言葉は命令ではなく交渉である。しかも遠慮気味の交渉だった可能性がある。なぜならば、その場所に、大国主の子がやって来て、「だれだ、人の国にやってきて、こそこそ物を言ってゐるのは」と語り、建御雷の神に力比べを挑んだからだ。それで、この力比べは建御雷が勝つところとなり、結局、大国主もその子たちもみな地上の国を天照に与へることに同意する。



これは、両者の武力衝突があったことを想像させる物語ではないか。



その通りだ。しかし、この話では、建御雷は強い武力を持ちながらも、相手が挑んでくるまで武力を行使してゐない。また、力比べに勝って、相手をひねり殺すことができたにもかかはらず、相手が「殺さないで下さい」と頼んだので、殺してゐない。さらに、建御雷は、大国主が出した条件、「天上の宮殿と同じ大きさの宮殿を、私を祭るために建てろ」を認めて、壮大な宮殿を建て、そこに大国主を住まはせてゐる。

これらの話は、天照側の外国勢力に対する寛容さを示してゐる。特に、天上の宮殿と同じ大きさの宮殿を建てて大国主を住まはせたといふことは、大国主の宗教的権威を以前と変はらず認めたといふことであり、この態度はイスラム教やキリスト教の原理主義と全く異なる発想を示してゐる。これらの点を逃がさないやうに、この物語を児童生徒に教へるならば、児童生徒は政治的寛容性さらに宗教的寛容性を自然に身につけるだらう。このやうな愛国心教育を続けるならば、児童生徒たちの心の中に、個人に対しても開かれ、外国に対しても開かれた、「開かれた愛国心」が成長していくのではないか。




 




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