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zoom RSS 開かれた愛国心と愛国心教育のすすめ (続。その一)

<<   作成日時 : 2006/07/24 19:52   >>

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      日本は戦後60年間、国家の軍事的意志として一人の外国人も殺すことなく、また国家的活動として一粒の外国領土を侵犯することもなかった。これは誠に貴いことであって、戦後の日本が世界に誇ることのできる物の一つである。だが、国家の平和的態度・意志というものは、たとえば日本人が日本人の愛国心だけを否定して、それでマイナスからゼロにもどしたと考えて納まるような、惰弱で閉塞した精神から生まれるものではない。逆に、日本人が日本を愛するがゆえに眼前の日本を否定する所まで行きかねないような、強く、開かれた愛国心から平和が生じるのである。



      下に、開かれた愛国心の実例を二つ紹介したい。一つめは、太平洋戦争時のビルマ(現在のミャンマー連邦)独立に係わる南機関の思考と行動。二つめはインドネシア独立時の現地日本人とインドネシア人との関係および事件である。二つの紹介文は、ともにケータイの短いメール文に慣れている人々には長い紹介文であるかもしれぬが、人生100年に及ばんとする今日、自分の長い人生に耐えて意味あるものとするためにも、多少の長さも辛抱して読んでいただきたい。まずは、太平洋戦争時のビルマ独立に係わる南機関の思考と行動について。



      ハワイ真珠湾攻撃の5ヶ月前、昭和16年(1941)7月、大本営に南機関が設置された。目的は、ビルマをイギリスから独立させることであった。当時、ビルマを経由して英米仏蘭から中国へ武器物資が渡されており、中国と戦闘中の日本にとっては、ビルマから英米勢力を駆逐する必要があったのである。機関長は陸軍大佐・鈴木敬司、機関員約20名(のち約50名)だった。



      このころビルマでは、英国からの独立を願うビルマ人活動家三十人が、「タキン党」と呼ばれる組織を結成していた。「タキン」とは、「主人」の意味。この国の主人は英国人ではなくビルマ人だという意味である。この三十人の中には、ビルマ独立後、副総理をした人、首相をした人、共産党の指導者になった人などがいて、ビルマ独立時の重要人物ばかりであった。



      南機関の鈴木大佐らは、この三十名に目をつけた。鈴木たちの計画は、タキン党三十人の活動家を、ビルマから英国官憲の目をかすめて密かに日本に移し、日本で軍事訓練等を施し、資金機材を持たせて再びビルマに帰し、そののち反英暴動を惹起させ、ビルマを独立させる。その後、速やかに英米から中国への武器物資の流れを断つ、というものだった。



      南機関のメンバーは、タキン党と接触をはかり、ビルマ独立の援助を約束し、厳重なイギリスの警戒を突破して、30名を日本に連れ出し、海南島(日本の海軍が占領中であった)の奥地のジャングルで軍事訓練を施した。毎朝、ビルマに向かって遥拝、独立必成の宣誓を合唱してから猛訓練に入った。南機関のメンバーと30名との合言葉は「ビルマの独立」であった。



      同年七月。一応の訓練を終えて、30名を船で密かにビルマに戻そうとした。まず、先発として、30人のうち4人が選ばれて船が出発した。ところが、船が港を出た後、参謀本部から、「出発を見合わせて、日本に送り返せ」という電報が鈴木のもとに届いた。鈴木は愕然としたあと激怒した。「この急変ぶりは何事か。激しい訓練のあと、待望のビルマ潜入を目前にして、胸をたぎらせている志土たちを、今さら日本に送還せよとはなにごとか。」大胆にも鈴木は、参謀本部に次のような偽の電報を出した。「本日、商品四個、紛失流亡す。」



      四人のビルマ青年が逃亡してしまったという意味である。折り返し、参謀本部からは、「流亡せる商品四個を捜査すべし」「すべての行動を見合わせよ」との中止命令が届いた。



      鈴木は苦境に立たされた。ビルマで待っているビルマ人活動家たちとの約束の期限はとっくに過ぎている。日本人としての信義を破るわけにもいかない。剛腹な鈴木は決断した。「一切の責任は俺が負う。こうなれば軍法会議も何もあったものか。」鈴木は、逃亡とみせかけた4人にビルマ潜入を命ずるとともに、ビルマ潜入第二弾の出動命令を南機関員に発した。



      同年十二月、ハワイ真珠湾攻撃・マレー上陸戦開始。南機関は、「ビルマ独立義勇軍」(BIA)の旗を揚げた。その旗は独立ビルマを象徴する孔雀旗だった。「ビルマ独立義勇軍」のトップは鈴木大佐。ビルマの独立活動家も、続々と参加し、ビルマ民衆の熱い歓迎と協力を得た。



      日本からは第十五軍が上陸して来て、南機関は、その指揮下に入った。イギリスとの戦闘を目前にひかえて、ビルマ人の日本軍に対する期待と信頼は厚かった。独立義勇軍のビルマ人のトップであるオン・サン将軍は、「日本人は戦闘にあたっては、指揮者はまず真っ先に立って討ち死にする。われわれはこれに遅れてはならぬ。遅れてはビルマ人の恥である。常に先陣をきそえ!」と、ビルマ人義勇軍員に檄をとばした。この独立義勇軍と日本第十五軍の約2ヶ月間の攻撃により、首都ラングーンが陥落。ビルマ全域は日本軍とビルマ人独立活動家の手に落ちた。



      鈴木らの人気は日を追って盛んとなった。ビルマの民衆は完全独立の日が近いことを肌で感じた。だが、日本軍が進駐している以上、日本軍さらに日本政府の了解なしに独立宣言が遂行できるものではなかった。また、鈴木ら南機関に決定権があるものでもなかった。そして結局、大本営はビルマ独立を認めなかった。



      ビルマ独立活動家たちの間に、日本に対する不信感が日増しに強くなっていった。南機関の内部でも、喧々諤々議論が続いた。「今まで自分たちが言ってきたことが嘘だったなどと、どうして言えるか。」「いつ大本営の方針が変わったのか。」憤慨のあまり、軍人をやめていく者も出た。軍司令部に直接談判に行く者も出た。鈴木に嘘はなかったが、鈴木の手の届かない所で脚本は書き変えられていたのである。このようなことはフィリピンの場合でもインドネシアの場合でも同じだった。鈴木たちは再度、苦境に立たされた。



      一方、独立義勇軍のビルマ人幹部たちも密議を重ねていた。ビルマの人々の日本軍への反乱!その可能性が日々増大した。この間、鈴木が最も悩んだのが、このビルマ側の反乱であった。一万二千人の義勇軍員に一万二千挺の銃器がすでに渡されていた。今、この時に、かれらが日本軍に対して反乱を起こしたらどうなるか、身の毛のよだつ思いだった。



      鈴木はビルマ人幹部たちに、「反乱するなら、俺を殺してからやれ。」と言い、南機関の幹部には、「反乱が起きたら、お前たちはどうするか、その時のことを考えておけ。まずお前たちが反乱の犠牲になることだ。南機関員が一人残らず犠牲になれば、日本軍も目が覚めよう。」と言い聞かせていた。鈴木は、さらに、みずから独立義勇軍を指揮しての、自らの手による日本軍への謀反まで密かに計画した。事態は、ビルマ軍の反乱か鈴木の謀反かという、ギリギリのところまで迫っていた。



      先手は大本営の方が先に下した。鈴木に日本帰国命令を出したのである。同時に南機関を解散。機関員に転属を命じて四散させ、さらに、「ビルマ独立義勇軍」の兵力を縮小させた。鈴木のビルマ離任は、発令から出発まで、僅か三日間というあわただしさだった。鈴木は、東京に着任すると東条首相(兼陸相)に会い、ビルマ独立問題について進言した。だが、今回もその効果は見られなかった。



      ビルマ独立に関する鈴木ら南機関の史実は、ここまでであるが、ビルマ民衆の対日不信感は、その間も益々強くなった。しかも日本軍は、独立義勇軍の拡大組織であるビルマ軍を弟分として育成しようという愛情に欠けていた。さらに、日本憲兵隊の無謀というより傲慢過酷な態度が、大東亜共栄圏の中で最も親日的といわれたビルマ民衆の対日感情を強く悪化させた。ビルマに限らず、フィリピンでもインドネシアでも、日本軍政下における憲兵隊の態度は悪評だった。



      結局、大本営がビルマ独立を正式に承認したのは昭和18年(1943)8月1日だったが、その約1年後、ビルマ国内で密かに「反ファッショ連盟」が結成され、「抗日」がビルマ指導者の指標となった。



      このころ、日本軍は各地域で敗北を続けており、ビルマの安全と独立を目的とするビルマ指導者が、信用しがたい日本軍と心中する道を選ぶなどということは、あり得なかった。また、インパール作戦での大敗は一段と情勢を悪化させた。ついにビルマ軍の日本軍に対する大規模な謀反が起こった。そして、昭和20年(1945)8月15日の日本降伏のあと、イギリス軍は再びビルマを奪還しようと、ビルマに攻め入ってきた。だが、ビルマ軍の志気と実力は以前とは比べものにならないほど強く、イギリスはビルマを再占領することが、遂にできなかった。



      ビルマ人独立指導者たちは、日本が敗北の瀬戸際に立った時、日本を捨てたのだったが、日本から受けた恩義がどんなに大きなものだったかを、よく知っていた。かれらは祖国を取るか日本をとるか、ギリギリの地点まで追い込まれたのである。「日本軍の恩義ある人を決して傷つけてはならない。」といって、その名簿まで配布した。また、戦後、鈴木が戦犯容疑で日本から呼び戻され、ラングーン刑務所に入れられた時、オン・サン将軍が奔走して鈴木は釈放された。日本将兵の内地帰還促進については、イギリス軍を説得し、その円滑を計った。鈴木だけでなく南機関の約50人のメンバーと、海南島で訓練を受けた30名のビルマ独立活動家は、戦後も同志的な友情で堅く結ばれている。鈴木の死後、その未亡人・節夫人をネ・ウィン首相(当時)はビルマに迎え、独立記念式典の主賓の座につかせ、自分の母親のようにいたわった情景は、並みいる列国大使公使の眼をみはらせたという。



      筆者は、鈴木ら南機関の強く貴い努力を日本人のお国自慢にしてはならないと思う。鈴木らの行為は、日本が植民欧米諸国と被植民アジア諸国の中間にあったアジア唯一の近代国家という、半ば偶然の立場がもたらした結果であって、もしも韓国や中国が同じ立場に位置していたならば、鈴木らと同じような韓国人や中国人が出ていたかもしれないのである。(もっとも、出なかったかもしれない。もしも出ないならば、韓国や中国の人々は政治的に日本に過去の謝罪を要求するにしても、道義的には余り偉そうなことは言えなくなる。また、欧米諸国も………話が長くなるが………植民地解放のために努力した自国人を持たないならば、いや、それ以前に、鈴木らの努力の精神的意味を理解しないならば、日本と日本人は勇気を奮って欧米さらにアジアの人々に対しても、鈴木らの精神が世界的普遍性を持っているということを強く主張しなければならないのである)






      もう一つ次はインドネシアの場合。

      インドネシアでも、日本軍が現地人の熱い歓迎と協力を得て、オランダ軍に勝利し、郷土防衛義勇軍(PETA)などを作って、インドネシアの人々軍事訓練を施したりもしたが、東京政府はなかなかインドネシア独立を承認せず、インドネシアの民衆や独立活動家を苛立たせた。結局、独立承認の知らせがインドネシア側に届いたのは昭和20年8月11日、そして、その4日後に日本の敗戦と降伏。インドネシア民衆や独立活動家は、再び旧宗主国オランダ軍が上陸してくることを恐れた。もしもそうなれば、350年にわたる植民地へ逆戻りである。



      インドネシア民衆は敗北日本軍に武器・資材を引き渡すことを嘆願あるいは要求し始めた。しかし、日本に勝利した連合国側は、日本軍の武器・資材を英蘭軍に引き渡すことを命令した。インドネシア独立に熱意ある日本軍人は、板挟みに悩まされた。日本軍中部ジャワ地区司令官の馬淵逸雄少将のように、英蘭の目を盗んで大量の日本軍兵器をインドネシア側に渡した人もあったが、インドネシア民衆の目の前で日本の武器・物資がオランダ側に渡ることもあった。



      インドネシア民衆は激昂した。「日本軍はなぜ、味方の我々に渡さず、敵に渡すのか。日本は我々の独立を妨害する気か!」インドネシア民衆は、日本民間人や日本軍人の家に押し入って武器を奪い、物資を強要した。その数は次第に増え、規模も大きくなり、また、組織的になった。



      一方、日本軍は降伏後は、武力を用いることを堅く戒めた。日本軍人、居留民、婦女子、みなインドネシアの暴力………主として兵器弾薬を求めての暴力だったが………のなすがままにした。完全な非暴力、無抵抗主義を取った。その犠牲者の数は約千人にも及んだ。それでもなお、日本軍人は武器を執らなかった。日本人の「平和主義」は、敗戦後に突然発生したのではない。良くも悪くも、日本神話の昔から長く日本人の心性の古層に潜み、つい最近まで持続してきたのである。下にこれらの事件の中の大規模なものを記すが、このころ、日本軍を脱走してでもと、インドネシア側に身を投じて、インドネシア人と一緒に独立戦争を戦った日本兵が千名から二千名ぐらいあり、その大半は戦死した。こちらの方は人類の戦争史上、おそらく前例を見ない貴重なる珍事である。



      ブカシ事件。
      ジャワの治安にあたっていた80人の日本将兵が、移動の途中、ブカシ鉄橋で一列に並べさせられ、まったく無抵抗のまま、インドネシアの人たちによって全員竹槍で刺殺された。それは一瞬の出来事であった。



      スマラン事件。
      ジャワ中部スマランでも同じような事件が起きた。陸輸総局に勤務している女子を含む70余人の職員が急襲され、無抵抗のままブルー刑務所に収容された。そこで殴る蹴るの暴行をうけた。8畳ほどの獄房2つに70人がすし詰めに押し込められ、水も食料も与えられず、用便も許されなかった。そのあげく、一人一人呼び出されて、射殺された。残りの者が騒ぎ出すと、房内に銃弾をあびせられ、全員が射殺された。死んだ者の鮮血は、川のように廊下に流れた。この血の海の中で、阿部という一人の日本人青年が血糊でもって壁に、「バハギャ インドネシア ムルデカ (インドネシアの独立に栄光あれ)」と記した。



      このことが全インドネシアに報道されると、民衆に非常な衝撃が走った。日本人に対する敵意が一掃された。独立後、スカルノ大統領は、この青年・阿部頌二の出身地・山形県鶴岡を訪れて、阿部の写真をもらい、インドネシアの独立記念日に大統領の写真と並べて飾ったのである。






      以上の記事文は故田中正明氏の著作『雷帝、東方より来たる』、故葦津珍彦氏の
      著作その他の文章を参考にさせて頂きました。
      特に、前著の第四章からは、多く借用させて頂きました。霊界の田中氏には
      お詫びかたがた、了解を乞ひ申し上げます。





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